反応しない練習

自分の判断とか,解釈だとかをもつことは一般的によいことだとされていますよね。

「自分の考えを持つ」とか

「自分で判断して行動する」とか

学校でも社会でも,それはよいこととされ,そのために経験を積み,発揮することを奨励されます。

でも,原始仏教においては必ずしもそうではなかったようで,

つまり「自分はこう考える」という判断,考えが執着を生み,悩みを引っ張ってくるのであって,それらを差し引いて「それがあるな」と主観を排除したニュートラルな目で見ることがだいじだとされています。

すなわち「正しい理解」です。

つまり正しい理解とは,「自分が正しいと考える」ということではないのですね。

「ある」ものを主観抜きに「ある」と理解することがなぜ苦しみを超えるのでしょうか。

それは,そのような見方をしていると「反応」しないですむからです。

反応することが悩みの源。

それを省き去るために「ただ見る。」

何も考えない。

ただ見る。

「怒っている」

「もやもやしている」

「困っている」

それだけ。

「だってあいつが・・・」とか

「上司が・・・」とか

「どうしよう・・」とか

過去や未来の「妄想」に属することは考えない。

「今」目の前,心の中に「ある」ものを反応せずにそのまま見るわけですね。

これが「正しい理解」

こうしてみると,本当に合理的な考え方だなと思います。

「拝めばご利益がある」のような宗教ではないんですね。

すくなくとも,仏陀が生きていたころには。

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